いきなりネタバレを書きますけど、いや、ネタバレになるかも微妙ですが、かと言って未見の人には過度な期待を与えてしまうかもしれませんが(回りくどいな)、ラストシーンの二人の表情にすごく興奮する。いや、男性的な意味じゃなくて、映画的な興奮。
ここに至るまで話を紡いできたんだなと感じる。
ルーニー・マーラ演じるテレーズ・ベリベット(名前も可愛い)は、曇った窓ガラス越しに街を見つめます。
この映画、ガラス越しの描写が多いように思うんですが、ほぼ常に窓ガラスが曇っているか、雨に濡れているか、あるいは曇天の空が写り込んでいる。おそらく、二人にとって世界は「曇ったガラス越し」の世界なのでしょう。そしてついぞ、二人揃って青空を見ることはないのです。
今やかつてのメリル・ストリープのポジションにいるんじゃないかと思うケイト・ブランシェット。そしてルーニー・マーラ。この二人の(トリッキーな)女優の名演と、色彩設計など緻密に計算された演出で、映画の完成度は高いのですが、話が面白いかというと、どうなんだろう?
たしか、パトリシア・ハイスミスって同性愛者だったと記憶しています。もしかするとこの話は自己を投影したのかもしれません。
同じパトリシア・ハイスミス原作『太陽がいっぱい』を、淀川長治先生は男性の同性愛映画だと解釈しました。つまり、愛憎入り混じった感情の先に“同化”する物語だというわけです。この『キャロル』も同じ系譜の話かもしれません。
だけど、惹かれ合う話って物語になりにくいと思うんです。
ほぼすべての恋愛物語がシェイクスピア『ロミオとジュリエット』に帰結するのは、二人の間に障害があって初めて物語足り得るからなんですね。
この映画の障害は“子供”であって、それはキャロルの胸算用一つでしかない。言っちゃえば、彼女と子供の両方を手に入れたいキャロルの身勝手にすぎず、その葛藤が主軸かと思いきやテレーズ視点で語られる。
『愛の嵐』が「この世界に二人きり」映画の極北にあるのは、二人きりにならざるを得ない圧倒的な理由があるからなんです。日の当たる場所を二人では歩けない巨大な理由があるから物語になるのです。
いや、本当は“時代”が大きな障害だったんだと思うんですが、トッド・ヘインズはあえてそこを描かない。障害よりもむしろ“解放”に主軸を置いた。まあ、そういう監督だからね。あるいは時代という障害の描写に“ベタ”なものを感じたのかもしれない。
でもその結果、なんか物足らない。悪い映画じゃないんだけどな。
日本公開 2016年2月11日(2015年/英=米)
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