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GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊



平成から令和に変わる瞬間にGHOST IN THE SHELLを語る。

監督:押井守/CS/★5(98点)再鑑賞↑(本家
ケーブルテレビで放映していたのを観始めて、ついつい最後まで鑑賞。何度目かの再鑑賞。
これを書いているのは、2019年のゴールデンウィーク。元号が平成から令和に変わろうとしている時。

本作の製作は1995年(平成7年)。
Windows95が発売された年。それ以前、一家に一台PCなんてのは夢物語だった。
同じ年にAmazonがサービスを開始したそうだが、まだ日本では知られていない。
阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が発生し、日本の大きな転換点だった(と今なら分かる)。ドラゴンボールの連載終了も変化の象徴だったかもしれない。

「ネットは広大だわ」とこの映画は言うが、公開当時、どれだけ「ネット」を理解している人がいただろう?
私も押井守好きの友人と映画館に足を運んだが、ピンとこなかった。
私が自宅にPCを買ったのは3年後の98年。
ネットが一般家庭に普及したWindows98発売年だ。

2001年に再鑑賞。この映画のコメントを初めて書いたのはこの時だ。
20世紀から21世紀へ移る数年間の進化はめざましい。
この映画には携帯電話が出てこない。缶ジュースだってステイオンタブではなくプルタブだ。インターネットだって今ほど「一般化」した時代ではなかった。実際、黒沢清『回路』(2000年)ですら、ネットはまだ常時接続でなかった。

しかしそれでも、公開時から世界は大きく変化し、この映画に対する私の評価も激変した。
その後、分かっているだけで2004年(この時点で5回目の再鑑賞)、2008年、2012年、そして2019年に鑑賞しているが、世界は様変わりした。

誰もが携帯電話を手に常時ネットにアクセスし、もはや「ネット」が生活の一部どころか「生きることの一部」になっている。
いまやWindows95以上の性能が掌の中にある。いずれ全てがウエラブルになるかもしれない。否、体内に組み込まれても不思議ではない。
まだ私が幼かった頃、機械文明に慣らされた未来人は身体が退化すると子供向け科学雑誌に書かれていたが、機械を身体の一部に取り込むなどとは誰も想像していなかった。

プチ整形など人体に手を加えることへの抵抗が薄くなり、義体というものは絵空事ではなくなっている。実際、私の前歯2本は差し歯である(<そんな次元かいっ!)
それはともかく、仮に私がコンタクトレンズを使用していたらどうだろう?私の知人に、顔面複雑骨折して未だに顔の中に針金(?)を埋め込んで顎を支えている者がいる。じゃあ義肢はどうだろう?もちろんそれを動かすのはリモートなんかじゃない。自分の脳神経からの信号だ。ペースメーカーはどうだ?発声機は?

一方、ブームと言えるほどAIが話題になり、「AIに仕事が奪われる」などという記事も話題になった。
人間の持つ機能のほとんどが機械(義体)で代替できてしまう現代に於いて、生命体の唯一の拠り所とも言える「脳」すら代替可能となろうとしている。
いや実は、大型計算機の時代から「記憶」「計算」といった脳の持つ機能の一部は、早々に機械に譲り渡していたのだがね。

テロリストとの会話。「何も吐かねえぞ」「吐く?自分の名前も知らねえくせに」。
清掃員の家族の「記憶」のクダリ。
この辺りから猛烈な勢いで話が転がり出す。

(余談だが、草薙素子の光学迷彩はデジタル処理だがテロリストの光学迷彩はアナログで描いていて、アニメ技術で質の違いを表現しているそうだ)

「身体」も「記憶」も作られたものだったら?
「生命」の拠り所とは一体何だろう?

この映画の根底にあるのは、生命の定義を問う(古典的)SFテーマであり、古来からある人類固有の哲学でもあるのだ。
まるでゴーギャンの絵。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

オープニング。
目覚めた草薙素子は軽く指を動かす。まるで自分が存在していることを確かめるかのように。

「生命体」の定義とは、人形使いの言うように「繁殖」だけなのだろうか?
私はこの映画を何度か観ているうちに、(生命体ではないけれど)人間の定義は映画の中に見出だせるような気がする。
それはバトーの草薙素子に対する「感情」だ。

(1995年 日)

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