私はテレビドラマ版を楽しく見ていたクチです。
このドラマの面白さは、無類の女好きの田中圭に吉田鋼太郎と林遣都というタイプの違う“男”が言い寄ってきて、田中圭の“葛藤”と吉田鋼太郎の“純情おじさん”っぷりが面白かったのです。
ところがこの劇場版は、その本質を全然捉えられていない。
アクションドラマとして人気を博したんだったら、香港でのドタバタ活劇や爆破シーンも劇場版として意味があったでしょう。だがそれが本質でないことは、ドラマ版を知らない者でも容易に想像がつくはずです。だって下手クソだもん。
分かっていないのは作り手だけ。劇場版=お祭りの“花火の打ち上げ方”を完全に見失っている。
田中圭の“葛藤”は連続ドラマで全て解消され、映画はその先の物語(というか単なるエピローグ)と化した結果、カップルがくっつくの別れるのという普通のツマラン話に堕ちている。
『モテキ』の映画版も似たような問題を抱えていましたが、大根仁クラスになると花火の打ち上げ方をそう大きく間違えたりしない。
ところがこの映画は、変なアクションシーンとか爆破シーンとか、間違ったお祭り感で間違った花火の打ち上げ方をしている。
例えば、おかずクラブゆいPのシーン。
面白いんですけど、彼女が笑いをとっちゃうのも「おっさんずラブ」の本質と違うと思うのです。
おそらく、元々おかずクラブオカリナが「おっさんずラブ」の大フアンとして有名で、出演オファーしたもののドラマが好き過ぎて自分が出るのが嫌だと言って断ったから相方に話が回ってきただけ。つまり変な企画の変なウケ狙い。
なんならあそこは会長の娘じゃなくて「イケメン息子」で、もっと話がこじれるくらいでなきゃいけない。
このドラマの本質を捉えていたのはサウナシーンだけ。
沢村“エロ男爵”一樹と志尊淳を加えて、劇場版的に正しくグレードアップしている。欲を言うなら中国人役の水橋研二も加えてほしかったくらい。
せっかく“禁じ手”を使ってまで吉田鋼太郎の記憶をリセットしたんだから、もっと“純情おじさん”の面白さで押せばよかったのに。
しかも唯一の出色サウナシーンも館内放送とか超絶ダサくて残念すぎる。
さらに真面目な事を言うと、花火のシーンでエキストラが歩いてばかりで、ほとんど誰も花火を見ていないんですよ。
そこは皆が花火を見上げてるのに主人公たちだけ違う方を見ているから意味があるシーンなんじゃないのかい?
周囲が若い男女のカップルだらけの中で男同士が手を握るからいいシーンなんじゃないのかい?
まるで「あのお馴染みキャラクターがブラウン管(死語)から飛び出してスクリーンで大暴れ!」というのが劇場版だった昭和時代の「ファン感謝祭」レベルの劇場版。
これじゃ映画はオワコンだと言われても仕方がない。
2019年8月23日公開(2019年/東宝=テレビ朝日)
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