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宮本から君へ



不条理という名の条理。なぜ今、新井英樹や岡崎京子といった90年代サブカル漫画が実写化されるのか問題。

監督:真利子哲也/角川シネマ有楽町/★5(90点)本家公式サイト
テレビドラマ版は観ていません。おそらくマツケン先輩のクダリなんかはドラマ版で描かれているのでしょう。

真利子哲也は、宮本の殴られ顔で冒頭から映画の方向性を観客に提示し、行き来する時系列を混乱なく巧みに捌きます。冒頭3シーン全部違う時間軸なのに、説明的なセリフや描写は一切ないからね。
過激な描写と“熱量”に目を奪われがちですが、実はめちゃくちゃ巧い。

ただ、『ディストラクション・ベイビーズ』の時もそうだったのですが、私は観ていて思考が停止しちゃうんですよ。なんだろうな?圧倒的な熱量に当てられちゃうのかな?
「何故こうなったんだろう?」とか理由を考える気が起きないんです。
ただもう「不条理という名の条理」として納得しちゃうんです。世界中を敵に回して戦うことに、理屈抜きで納得しちゃう。仕方ないよねって。真利子哲也の映画にはそういう力がある。

そういうわけで映画自体は深く切り込めないのですが、昨年の吉田恵輔『愛しのアイリーン』に続く新井秀樹作品の実写化は「何故いま?」を考えなければいけないと思うのです。
もしかして『愛しのアイリーン』が初の映像化じゃない?違う?
いずれにせよ、お茶の間向けの作家でないことは言うまでもない。

実は私は、原作マンガも読んでいません。
90年代ともなるとマンガ自体をほとんど読まなくなっていましたが、それでもこの原作は知っていました。賛否両論壮絶問題作で、当時ネットがあったらもっと話題になっていたはずです。

一方最近は『リバーズ・エッジ』(2018年)、『チワワちゃん』(19年)と90年代岡崎京子作品も続けて映像化されています(2000年代作品の『ヘルタースケルター』はリバイバル感が薄い)。
岡崎京子も新井英樹同様、お茶の間向きの作家じゃない。一口に言うなら2人とも「R指定サブカル作家」ですよ。

90年代のど真ん中は「ドラゴンボール」であり「スラムダンク」であり、その後「ワンピース」なのです。戦いは成長の糧であり、傷はやがて血肉となる。人生に無駄な苦労なんか一つもない。汗と涙、そして友情が人を強くする。こうした「信仰」は無数の信者を生み、当時、いや今でも、あたかも「正しい人生観」のような顔をしてメインストリームに鎮座しているのです。

「R指定サブカル作家」2人とも、こうした「信仰」と無縁です。“サブ”カルチャーどころじゃない。むしろ対極にいる。
「世界中を敵に回すことも厭わない」主人公たちは、不条理な苦悩を抱え込み、性に翻弄され、成長とは無関係に血を流し、地べたを這いずりのたうち回り、ただただ悔し涙を流す。

何故いま映画化されるのか?

正解は分かりません。
当時と時代が似ていると言う人もいます。そうなのかもしれませんが、当時も全然映像化なんかされていない。だって時代のど真ん中の対極なんだから。

もしかすると、あの時代の(本当は今でも主流の)「正しい人生観」だった「信仰」が崩れかけているのかもしれません。

私の感覚で言えば、あの「信仰」は90年代に始まったことではなく、それ以前から「日本人的価値観」として主流だったのです。強いて言えば、仲間じゃなくて「ヒーローは孤独」でしたけどね。
学校教育は、運動会で集団行動、宿題で残業と「社畜」となるべく子ども達をしつけてくる。せっかくマンガへ逃げた子ども達は、知らぬ間に「苦難に立ち向かう努力」を洗脳されている。もしかすると「ゆとり教育」より悪質かもしれない。

それはさておき、この「日本人的価値観」に対し「違うんじゃねーの?」と一部の人が気付き始めた。それが「サブカル」。新井秀樹や岡崎京子だったんですよ。
それが四半世紀を経てやっと、対極よりメインストリームに近い所に住む映画を作れるくらいの人が、「日本人的価値観が違うんじゃねーの?」と気付き始めたんじゃないかと思うのです。

ただ、この映画が「メインストリーム」になるような世の中も間違ってるとは思うけど。

余談

ついでに言うと、「不条理という名の条理」と並んでこの映画で思い出す言葉が「狂気の沙汰」。
池松壮亮も蒼井優先生も、その「狂気の沙汰っぷり」に主演賞をあげたい。



2019年9月27日公開(2019年/日本)

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