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獄門島




監督:市川崑/CS(2004.10.09再鑑賞)/★5(82点)本家gooDB

これは市川崑による『砂の器』だ
大方の意見に反して、私がこの映画で最も評価しているのは、原作に無いオリジナルの部分なのである。

今調べて分かったのだが、『犬神家の一族』が昭和51年10月公開、『悪魔の手毬唄』公開が翌52年4月、本作が同年の8月公開で『女王蜂』は翌53年2月公開(らしい)。
わずか1年半足らずの間にこのクオリティで4本も作ってるのは、それこそ「お前がキチガイだ」という話なのだが、それほどこの頃の市川崑は絶好調で、全身が“映画”そのものだったに違いない。この頃の市川崑なら、フェリーニに続いて「私が映画だ」宣言をしてもよかったのではないかとさえ思う。その象徴が本作の「犯人を変えた」所に出ているのではなかろうか、と私は勝手に思っている。

映像は謎解きには向かないと昔から言われている。何しろ人物の表情も含めた“現物”が観客の視覚に入ってくるのだから、小説よりもはるかに犯人の推測は立て易い。映像が小説よりも謎解きに向いている部分があるとすれば、いわゆる「ミスリード」と呼ばれるものである。「ええっ?!カイザーソゼ?!」ってやつである。

市川崑はそんなチンケなことはやらない。公開当時の予告編では「原作と犯人が違います」どころか「犯人は女です」とまで堂々宣言している。要するに、最初っから「犯人当て」なんてもので観客の興味を引き続ける気がないのだ。
たしかに、自ら火をつけてしまった金田一ブームで、多く観客のが既に犯人を知っているという商売上の理由もあったかもしれない。あるいは、それを逆手にとって、金田一よろしく観客に向けた謎掛けだったのかもしれない。

しかし私は、別の理由を提示したい。そしてその理由こそ、市川崑の“映画的思想”だと思うのだ。

「意外な犯人」というのは「ワォ!びっくり!」というのと同じである。言わば、ホラー映画における大音量効果音で観客を驚かせるのと同じだ(大音量効果音よりははるかに頭を使わなければ出来ないものだが)。
それは映画においてもキャッチーで受け入れ易いのではあるが、むしろ“小説”にとっての面白さなのではないだろうか。そして、原作の面白さはこの「意外な犯人」なのだ。

“映画”(少なくとも日本映画)的に面白いのは、「犯人が誰か?」ではなく「動機が何か?」だということを(少なくともこの頃の)市川崑は熟知している。観客は、事件の解明と共に犯人の悲しい悲しい悲しい過去が明らかになっていく過程に人間ドラマを見出し、興味を覚えるのだ。あの子役(荻野目慶子なんだけどさ)が指から血を流しながら土を掘る姿に涙を流さずにいられようか(バンバンと机を叩きながら力説)。

日本の推理映画は、犯人こそ真の主人公である。これは今日の火サスや土ワイに至るまで連綿と続いている。『俺たちに明日はない』で初めて「犯人が主役だなんて!」と非難を浴び、「ニューシネマ」なんて命名されたアメリカとは根本的な土壌が異なるのだ。

つまり、原作には無い“映画”的エンターテインメントを与えたことによって、初めてこの作品は映画化された意味があったのだ。
そして「市川金田一」という唯一無二のジャンルは、犯人を知ってから再度観る方が面白いのだ。

余談
ところで、野に放たれたキチガイオヤジはどうなったんだ?

1977年8月27日公開(1977年日)141分



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