4年ぶりに再鑑賞して評価上げる。
ここ最近、日本が沈没したりミッションがインポッシブルしたりという大作映画を観続けていたせいか、改めてこの小品がメッチャ楽しかった。若者特有のグダグダ感が最高だった。もうね、映画全体がグダグダしてんのよ。
改めて観るまで、この映画が『気狂いピエロ』に続くのだと気付いていなかった。調べてみたらあちこちに書かれてんじゃん。ゴダール自身「『勝手にしやがれ』の続編」とも言ってるそうだが、それはどうなのかなあ?
(以下は4年前に書いたコメントそのまま)
楽しい。好きだ。若い頃、例えば大学生の時にゴダール初体験として本作を観られたならゴダール狂になっていたかもしれない。
どういうわけか知らんが配給の関係だかで30年近くも日本未公開のままだった作品。だから今更「15年前に観たかった」とほざいたところでどうにもならん。おかげでゴダール好きにならずにすみました。申し遅れました、私、ゴダール嫌いでございます(ゴソゴソと名刺を差し出す)。
洒落たシーン、素敵なシーン満載。ところがもう分かっちゃってるんだ。彼が描きたいのは三文小説風B級犯罪でも青春の彷徨でも当然人間ドラマでもない。そんなものは観客に受け入れられ易い(あるいは資金面等で作品を作り易い)道具でしかなく、「映画の虚構性」を暴くことこそが彼の主題なのだ。
オールロケーションで超リアルな素材を使い、映像と音をバラバラにして切り刻んで組立直す。セット撮影によるいかにもリアルを装った映像で観客の共感を呼ぶ旧来の(そして今も脈々と流れる)「写実主義」映画に対する挑戦。
「映画は作り物です」
彼の映画は常に(少なくとも政治性を帯びる以前は)そう語ってきた。そして我々は既にそれを知ってしまっている。今更そんな事言われたって何だと言うのだ。
「赤いナントカ」シリーズで「百恵ちゃんをいじめるな!」と秋野暢子に剃刀を送った時代じゃあるまいし、「ほんにお店の手伝いまでして、えなりかずきは偉いねえ」と言うおじいちゃんおばあちゃんや、「綾波レイと結婚したい」と本気で願って「気持ち悪い」と庵野に言われちまうような奴ならまだしも。もっともそういった輩はこの手の映画は観ないか(当時もそうだったろうけど)。
今となっては新鮮な感動も衝撃もない。お蔵入りしていた本作こそ、ゴダールの挑戦が「一般的に受け入れられ易い」形で成功した最たる例であるというのは日本人にとって(私にとっても?)不幸としかいいようがない。
そして、彼が暴いたはずの「映画の虚構性」が「最も映画らしいシーン」を生み出し、この作品に満載されているのは、ある意味皮肉だ。
日本公開2001年2月3日(1964年 仏)
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